郭源治の現在は、息子が人気俳優で、予想不能なまさかの作品に出演【今何してる】

郭源治は、助っ人外国人屈指の真面目さで、最上位投手となった。

郭源治は現在、日本に帰化して息子が俳優として、凄い作品に出演している。

郭源治は現在、台湾で中学生高校生相手に野球を教えるボランティアをしている。郭源治の性格がメチャクチャわかるエピソードが聖人すぎる

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郭源治はこんな野球選手:助っ人外国人1の当たり投手!?驚異の勤続年数の大ベテラン【中日ドラゴンズ】

郭源治の記録をざぁーっと並べていく

  • 台湾出身で、兵役終了後に来日してプロになり、初登板では151kmを投げている化け物
  • 超優秀な記録を残した助っ人外国人は、引く手あまたになるので、1つの球団に所属している年数は5年以下が普通になる。しかし、郭源治は、中日ドラゴンズに16年在籍した
  • 日本プロ野球界で活躍した期間も16年で、通算防御率は3.22、16年間高い水準を保ち続けた
  • 1987年1988年は、新監督の星野仙一によりクローザーへ転身、いきなり26セーブ37セーブと、2年連続の最多セーブ投手になる。防御率も1.56と1.95と圧倒的な記録を残した
  • リーグ優勝を果たした1988年の44セーブポイントは、歴代最高記録を打ち立てている
  • 1994年38歳には、先発起用で防御率2.45を達成、最優秀防御率を獲得している
  • 通算106勝106敗116セーブ、防御率3.22

とにかく息が長く堅実に投手として中日ドラゴンズを支えた助っ人外国人。その勤続年数の長さと安定感から、最高の助っ人外国人投手として名前をあげる野球ファンも多い

郭源治の現在:息子の佳久創が日本で俳優に

○郭源治の息子、佳久創、ラガーマンから俳優へ
佳久創は身長185cm、バリバリのラガーマンで、中学3年生から初めて高校3年生の時に全国準優勝を達成している。明治大学法学部に進学して、ラグビーチーム「トヨタ自動車ヴェルブリッツ」に入団して、3年間ラグビー選手として活躍した。そして引退した2015年末に俳優としての活動を始める

○佳久創、ラグビー経験がメチャクチャ生きる
佳久創が、初めて公に知られるようになったきっかけは、大泉洋主演の連続ドラマ「ノーサイド・ゲーム」。「半沢直樹」の原作者、池井戸潤の小説であり、ラグビーの話だった。元ラガーマンの経験が生きて、佳久創はメインキャストの役柄を獲得。

そして、父親である郭源治が、野球ファンにとってあまりにも懐かしく好感度の高い投手だったことで、「2世タレント佳久創」として、活躍の場が広がっていった

○佳久創、映画にドラマに、そして…
佳久創は、映画「キングダム 運命の焔」では飛信隊の竜川役と、かなり美味しい役どころを演じている。どんどん有名になって俳優としての大きな成功をおさめている。

そして佳久創についに念願の仕事が来る。戦隊モノのオファーがあったのだ。しかも役柄は、ブラックである。

郭源治の現在:今何してる?

○郭源治、郭源治2世育成へ
郭源治は、2013年頃から台湾に戻って、そこで中学生や高校生に野球を教えているという。

実は現在の台湾では、大人から子供まで野球ファンなら知らぬものがいないほどの郭源治は英雄扱い。1999年には42歳で台湾プロリーグに参加して、先発15回で防御率2.34と、最優秀防御率を達成してから引退した。もちろん2000年のアジア予選にも42歳で参加している。

そして台湾リーグ引退後は、台湾プロ野球リーグの首席顧問に就任して、台湾球界に貢献する。さらに2019年には台湾野球界で、投票により野球殿堂入りを達成している。

そんな英雄である郭源治の現在の年齢は、67歳(1956/10/5)。野球関連の仕事にボランティアにと引っ張りだことなっている。

郭源治が聖人過ぎるエピソード集【性格】

  • 郭源治は入団前、複数の球団からオファーが来ていた。値段は様々で、高いところでは3000万円を超える契約金の提示もあった。中日ドラゴンは、その中では低い方で、契約金1250万円年棒1250万円だった。中日ドラゴンズに決めたのは、1番最初に高く評価してくれたから信頼したと語っている。郭源治は貧しい家庭の生まれだった。来日したときも空港に降りた郭源治は数千円しか持っていなかったと、当時を知る人は語っている。ちなみに契約金1250万円のうち半分は、すぐに家に仕送りして、もう半分は家族のために使ったらなくなったらしい。
  • 郭源治は、現役引退後2001年に、台湾料理屋【郭源治 台南担仔麺】を開店した。残念ながら2013年に台湾野球界での活動も忙しくなったこともあり閉店してしまっているが、開店理由には弟さんとの約束があった。弟さんは1988年に交通事故でなくなってしまったが、かねてより「将来は台湾料理屋を開こう」と話していた。弟は当時、料理人としての修行も始めていたという。その矢先の交通事故だった。それから13年後、郭源治以外誰も覚えていなかった約束を果たして台湾料理屋を開店している。
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